寝ていると深夜に家の電話が鳴った。嫌な予感がした。
気づかないふりをして寝続け、翌朝も4時起きでいつも通り朝食を食べた。
林檎を食べているとやはり、電話がなった。
電話を受けたら、「ああ」と思った。
すぐに姫路へと向かう。
2024年2月26日に70歳の母親が脳梗塞で倒れてしまいました。
母親はその年齢や高血圧(最高で200を超えていた)にもかかわらず、殺人的なハードワーク(宅配の仕事)を10年ほど続けていました。
わたしはめちゃくちゃ後悔しています。
●その仕事をやめてほしかったのですが、止められなかったこと、
●最後のLINEですごくそっけない返信をしてしまったこと、
●母親に70歳のプレゼントをあげられなかったこと
●大好きと伝えられなかったこと
後悔の念が止まりません。
おかんは死なないものだと思っていたのです。
伝えたい事はいつでも伝えられるし、親孝行はいつでもできると思い込んでいました。
本当に甘かった。
現在、母親は意識がない状態で、今の苦しい状態を見届けることも辛い。
「はやく楽になってほしい気持ち」と「生き延びてほしいという気持ち」が混在しています。
今、私ができることは母親に一秒でもそばにいることと思っていますが、面会時間に厳しい制限があり、祈ることしかできません。
ふと思い出しました。
ハンターの黒田未来雄著「獲る食べる生きる」での1シーン。
黒田さんが獲物を仕留めたとき、師匠キースが「瀕死状態になっているシロイワヤギに近寄ってはいけない」と言いました。
「彼は今、死を受け入れなくてはいけない。そのための時間を、彼に与えてあげなくては」
キースは獲物の体だけでなく、心までを慮っていた。野生動物を僕たちと同じような知性を持つ存在として捉え、彼らの感情に寄り添い、敬っていたのだ。
〜略〜
「いいか。獲物に最後の力が残されているとしたら、まだ近づいてはだめだ。彼らが死を受け入れるためのひとときを決して穢してはならない。しっかりと待つんだ。相手がどんな生き物であってもそれは変わらない。
そしてその時間は我々にとってもとりわけ神聖だ。
獲物と、それが還っていく大いなるものに祈りを捧げるべき時なのだから」
狩猟の対象となる野生生物と人間とは状況が違います。
ただ、死ぬときの苦痛が最小限であることはどの動物であっても共通だと思います。
まだおかんは生きているし、生きるために頑張っている。
いま、わたしは何をすべきか?
この辛さと悲しみと後悔のなかにいないといけない。
苦しまないといけない。中途半端に逃げてはだめなのだ。
その悲痛の中にいることにこそ意味があるはず。
ただ、いかんせん、忘れてしまうのです。
「いま抱いている苦しい思い」も「人間はいつ死ぬか分からないこと」も。
日常の引力に引き寄せられて、すぐに忘れる。
忘れないためにはどうするべきか。
西加奈子さんの「くもをさがす」で印象的な言葉がありました。
医療関係の事だったし、私1人だけのことではないので配慮の上で書けないこともあったし、意図して書かないこともあった。書くことを身体がどうしても拒むほどの醜い瞬間があったし、書くことをやはり身体がどうしても許してくれない美しい瞬間もあった。私が特に大切にしたのは、美しい瞬間のことだった。
最近、インターネットで様々な美しい話を見かける。
〜略〜
そして同時に、こうも思うのだ。
こんなに美しい話を、気前よく私たちに分け与えてくれなくてもいいのに。
それはあなたの、あなただけの美しい瞬間ではないのか。
私はケチなのかもしれない。この美しい瞬間のことはきっと書くべきだ、皆に知ってもらうべきだ、そう思う心のどこかで強く「教えたくない」と思っていた。本当に、本当に美しい瞬間は、私だけのものにしたい。
誰にも教えたくない。
姫路ですごした何気ない日常生活の中におかんと私のあいだに美しい瞬間がありました。
私はそれを誰にも共有したくない。
私とおかんだけの2人だけの大切な思い出です。
もう一度、おかんとの思い出を作りたいので、今からもう一度向かいます。
忘れられない何かを。
【追記】2024年4月2日に亡くなりました。本当にありがとう。大好きです。