最近、「令和元年の人生ゲーム」という小説を読んでいました。
すると、なぜか「成瀬は信じた道をいく」という小説の「成瀬あかり」の魅力をあらためて感じました。
なんで?
まず「令和元年の人生ゲーム」について言及します。
麻布競馬場著「令和元年の人生ゲーム」。
そういえば以前も麻布競馬場さんの著書の書評を書きましたが、アラサーならではの感情表現がすごく豊かです。
さて、この「平成元年の人生ゲーム」では、現代社会において不変の意味、そして変わっていく周囲から置いていかれるものの悲しみが描かれています。
つい、不安定だった過去の自分を登場人物に重ねあわせてしまいました。
僕はいつだって訳もなく不安で、常にその不安を消してくれる依存先を求めていた。
お前はただのメンヘラだ、と言われれば反論できないし、そのメンヘラじみた依存の最大の相手先が長谷川だったのだ。しかし僕は、身体的な関わりを含めてもっともっと深く、入り組んだ依存関係を恋愛の中に発見して、最終的には冴子との結婚に至った。
ああ。
わたしは今でも「理由のない不安」に襲われることがしばしばあり、依存先を求めてしまう傾向にあります。
今年、アーユルヴェーダのために訪れたスリランカでも「依存」について考察しておりました。
(詳しくはスリランカ旅行記に記しました)
周囲がどんどん変わることへの不安。
「自分だけが全く変わっていないのではないか」という恐怖。
わたし自身47年間、常に感じていたことです。
置いていかれたことの悲しみ
ー世の中には、誰かを置いて去っていった側と、置いていかれた側があって、多くの場合、僕たちの人生の時々によってその両方を、加害者と被害者を兼ねることになる。
僕がある時点では冴子のために長谷川を置いて去っていった一方で、冴子に置いていかれて、今度は長谷川に置いていかれようとしているように。
わたしが抱いている感情はこの「置いていかれたことの悲しみ」に共通するのもしれません。
一方の「成瀬は信じた道をいく」の主人公「成瀬あかり」。
彼女に惹かれる理由は「自分自身を強固に持っている」という一点につきます。
例えば、高校生なのにスマートフォンを持っていなかったり、武士のような独特の言葉づかいだったり。「何か用事があるときは家の電話にかけてくれ」と、家の電話の語呂合わせを伝えるところとか。
表紙のイラストも目力がすごいし。
成瀬のように自分の軸がしっかりしていると周囲の人は安心感を覚えるのです。
例えば「観光大使ー1グランプリ」に遅刻してきた相方の篠原かれんに対して。
「こんな日に、遅れてごめんね」
「謝ることはない。主催者には 事情を説明してある。
出番順を決めるくじは、私が念じて最後の方を引いた。まだ出番までは時間がある」私は成瀬をただの変なやつだと思っていたけど、この安心感はなんだ。
くじの順番を狙っていくことだって、成瀬だったらできる気がしてくる。
四国から京都大学の入試でやってきて野宿するという城山に対して。
「スマホを持たない女子高生とかめちゃくちゃ面白くない?」
「私は面白さのためにスマホを持っていないわけではないのだが」
「だめだ。3000円で京大を受けてくるなんて企画全然面白くない気がしてきた…」
城山はダイニングテーブルに両肘をついて頭を抱える。
「いや、面白いかどうかは見た人が決めることだろう。城山が作り出した動画を発表することに意義があるのではないか」
わたしもKindleで著書を書きまくっているとき、このセリフで勇気づけられましたね。
「令和元年の人生ゲーム」と「成瀬は信じた道をいく」。
両極端のキャラクターを通じて、なんとなく自分軸について考えている今日この頃です。
FPや宅建士の問題集や「スリランカへのアーユルヴェーダ旅行記」、「睡眠薬の断薬ストーリー」などの電子書籍を出版したりしています。
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