今回はプライベートな話。
去年の春に母親が亡くなったのですが、最近ようやく心の整理ができてきた気がします。
故郷の姫路で桜を見ながら号泣していた日々を思い出します。
そのとき、ふと「スリランカに行こう」と思いたち、そこから人生回帰がスタートしました。
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スリランカでは母親のことを何度も思い返しましたが、インド洋がわたしの心を浄化してくれました。
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あのから1年が経ち……。
時間が経てば大丈夫になるかと思いきや、ふとした瞬間に母親の姿がよぎることがあります。
母親に似ている女性をみると、動作が止まります。
この1年間、「大切な人を亡くしてからどうすれば立ち直るか」を考えていましたが、わたしの結論としては、「無理に立ち直らなくていい」というところに着地しています。
大切な方が亡くなった時の悲しみをどのように乗り越えるか、自分なりに振り返ってみたので共有しますね。
基本的には、何かに熱中することが非常に有効です。
メンタルがなにか1つの物事に集中しているような「フロー状態」に入ること。
何でもいいです。
とにかく熱中できることをやってみる。
私の場合、「書くこと」と「勉強」が効果的でした。
スリランカに行った後、Kindleの電子書籍を書きまくりました。
また、秋には行政書士の試験を控えていたため、勉強に没頭しました。
しかし、行政書士に合格した後で、何かに打ち込もうという情熱がなくなった状態になりました。
心にぽっかりと穴が開いているような……。
やはり「ヒマ」が1番よくありません。暇だといろいろと考えてしまいます。
体調をかえりみながら、無理矢理でも忙しくすべし。
母親は毎日約70人のお弁当を運ぶ仕事をしていました。
その仕事は、はたからみても激務で、年齢に対してハードすぎると思っていました。
母は血圧が極端に高くなり、ストレスや過労で倒れないか、ずっと心配していたのです。
「やはり母親に仕事を辞めさせればよかった」
これも亡くなった後の「後悔」のひとつでした。
ですが、あるときにカウンセラーの方に相談したところ、次のようなアドバイスをいただいたのです。
「毎日母親を待っていた人が、70人もいたんですね」
この言葉は、わたしも全く思いつきませんでした。
発想を転換することで、このように捉え方が違うのかと驚きました。
そのように考えると、自分の「後悔」も和らいだ気がします。
「母親の仕事は誰かしら多くの方の幸せにつながっていた」と信じられたからです。
あるとき、料理家の栗原はるみさんの特集番組(NHK)をみていました。
栗原さんはだんなさまが亡くなって5年ほど経ち、ようやく心の整理がつき始めたとおっしゃっていました。
その中で、とても印象的な言葉がありました。
「わたしが亡くなったら、旦那にいろいろなお土産話を持っていく」
わたしも、亡くなった母親に話したいことがたくさんあります。
それは、あの世に行ったときの「楽しみ」として取っておこう、と。
わたしが一番後悔していること。
それは、亡くなった母親と最後に言葉を交わせなかったことです。
「ひょっとしてこの世でやり残したことがなかったか?」
「もしそれがあったのであれば、なんとか叶えてあげたい」
結果として、母親と会話することは不可能になってしまいました。
しかし、亡くなったかたの後ろには必ず「残された人」が存在します。
今わたしができることは、大事な人たちに何かを与えること。
抽象的な表現になってしまっていますが、家族や友人知人に、これまでの知識や経験を伝えたい。
それが少しでも役立てれば本望ではないか、と思うのです。
人生はいつ終わるかわかりません。
絶対に後悔しない人生を送ることは困難極まりないですが、「自分の人生が良かった」と思えるような生き方をする。
それが、亡くなった母親のレッスンの一つではないかと思っています。
この1年半で、死生観も変わりました。
誤解を恐れながら言うと「死ぬことは別に悪いことではない」とも考えられます。
ポジティブに捉えれば、人間は誰しも死ぬわけで、それを日常生活で紛わらしているだけかもしれません。「死の恐怖」が、以前よりも弱まったと感じることさえあります。
時間が解決することもあれば、厳しくなる局面もあります。
ゆっくりいきましょう。